© 2005 Kaz Oishi

現代イギリスこぼれ話
No.10

本の余白に


イギリスの詩人ウィリアム・ワーズワースが書いた有名な詩のひとつに「論駁」というのがある。本なんていうのは無味乾燥な紙の束でしかないから、そんなものはどっかに打っ棄って自然の光のなかに出てきなさい、という詩だ。研究のために次々と本や資料を読まなくてはならないときは時折思わずワーズワースと一緒に「本だと!そんなのは退屈で果てしのない苦しみだ」と叫びたくなるが、本を「不毛な紙の束」と言い切る気にはとうていならない。ワーズワースの境地には達していないということだろう。


自然の中へ?
悩めるワーズワース。

だが、足利市立美術館で行われていた「イギリスの美しい本」展に行くと、本は「不毛」どころかその存在自体に哲学的価値、さらには芸術的な価値さえあることがよくわかる。ますます捨て去る気にはならない。カクストンの手による最初の印刷本からはじまり、ミルトン、エドワード・ヤング、ウィリアム・ブレイクの詩集、ヴィクトリア朝時代の挿絵本、そして現代のアーティストの制作した本(これは中身のない外見だけの本)まで、本はそれぞれの内容や作者ばかりではなく、その時代と文化をその装丁全体に顔の表情のように刻み込んでいる。


カクストンのロゴ
ケルムスコット・プレス制作によるチョーサーの『カンタベリー物語』

挿絵にも味があるが、印字の形や形自体がひとつのアートなのだ。特にウィリアム・モリスがケルムスコット・プレスで制作した本はどれもいい。厚くてやや嵩張るものもあるが、書斎の机に広げてぜひ読みふけってみたい本だと思う。デザインといい、革表紙の質といい本好きな人間にはたまらない魅力だ。

活字や本が社会から少しずつ消えていっている最近だからこそ、手にとって眺める一種の芸術作品として本を見直す機会は貴重だ。今では、名作はもちろんのこと、一般の書籍までデジタル化される時代である。インターネットで閲覧できてしまうのは、確かに便利だ。僕自身、手元に参照したい本がないときはインターネットで検索して確認することがよくある。だが、それは確認程度であって、じっくり読もうという気にはならない。だいたい目がチカチカしてきて痛いから読めない。やはり、手にとってページをめくる動作があってこそ読書という行為は完結し、意味と価値をもつ。情報収集はインターネットでも可能だが、書かれていることの意味を咀嚼し、思考し、自分の中に吸収していくためには、指でページをめくり、鉛筆でしるしをつけたり、余白にメモを書いたりする作業が不可欠ではないだろうか。その過程で本は自分の血や肉になり、自分の世界の一部として同化していくのだ。

昔まだイギリスで学生だった頃に、パイプと葉巻を常に口にくわえていた指導教授から本を借りたことがある。確かアレクサンダー・ポープとバイロンについての本で、図書館にも一冊あったのを誰かが既に借り出していてチュートリアルの課題提出に間に合わないので先生から拝借することにしたのだ。自分の部屋に帰ってその本を開くと葉巻の何ともいえないいい香りがページをめくるたびに立ち上ってきた。元来タバコは嫌いだが、本のページの一部となり風化して紙の匂いと調和した葉巻の香りには、それを吸いながら思考したはずの先生の学術的な知性が宿っているような気がして妙に感動したものである。


タバコや葉巻を吸わない僕の読んだ本にはそんな知性の香りなどあるとは思えないが、それぞれ読んだときの感動や想いは宿っていて自分でもそれはよく覚えている。



大英図書館内風景


King's Library
 

図書館から借りた本であってもそれは同じだ。大英図書館ボドレアン図書館に行くと日本の図書館では手にはいらない古い革表紙の本ばかりを読むのだが、こうした本にもそれぞれ個性があるし、何よりもそれを読んできた数多くの研究者たちの想いがこもっているのだろう。新しい発見を期待してわくわくして読んでいた人もいたろうし、捜している必要な記述がなくて失望した人もいたろうし、好きでもないのに仕方なくいらいらして読んでいた人もいたであろう。なかには勝手に記しをつけたり、余白に自分の意見さえ記録している人もいる。インクの色が相当色褪せているのはおそらく18世紀か19世紀のはじめの可能性さえある。ページの縁についた沁みや日焼けの跡は、自然がデザインしたアートともいえよう。本には装丁だけではなく、ページの余白にさえ歴史が記録されているのだ。

そういえば小林秀雄が読み漁った東大仏文科の図書館の本には、読んだ証(あかし)に彼のサインと読みながら頭をかいた際に落ちたフケが挟まっているという。あまりきれいな話ではないので、残念ながら事実を確認する気にはならないが、フケとは言わないまでも確かに読んだ人間の手垢さえも本の歴史を築く。本もそれぞれ顔と歴史を与えられて初めて生きていることになる。インターネットで本、いや文字を見る人の数が増える分、古本屋が次々に街角から姿を消していってしまっている。東京でもロンドンでも事情は同じだ。個性と歴史を与えられた本は大切にしたいと思う。


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