|
ここ最近、大きな自然災害が続いている。5月には中国四川省の大地震、ミャンマーのサイクロン、そして先月には岩手・山形の地震である。それぞれ、甚大な被害が出ている。メディアを通して見ても、悲惨な状況には胸が痛む。とはいえ、実際に報道されるのは、当たり障りなく編集された映像である。現地の有様は僕たちの想像をはるかに超え、凄惨を極めたものに違いない。
ふと、こうした自然災害を書きとどめるのにはどんな文学が適切なのだろうかと考えてしまう。ハインリヒ・フォン・クライストの「チリの地震」は著名な作品だが、地震そのものよりも、地震を背景に変化するあてにならない人心と運命の無常を美文で描いたものだ。より適当なジャンルは農耕詩ではないだろうか。その本家本元はウェルギリウスの『農耕詩』である。その第一巻には、カエサルの死後起きた天変地異が記録されている。秋の雷雨が穂をたわわに実らせた穀物を吹き飛ばし、大雨が川を氾濫させ、津波を引き起こし、人も穀物も押し流す。
何という恐ろしいことだ!川の流れは止まり、大地は裂け、
神殿の中では象牙の像が悲しみの涙を流し、聖堂の像は汗をかいた。
川の王エーリダヌスは、荒れ狂う渦をもって森を洗い流し、
家畜の群れを小屋もろともに、すべての野を越えて運び去った。
(河津千代訳) |
 |
第三巻では、悪疫の流行についても物語っている。穀物を育て、野菜を栽培し、畜産を行う農夫たちにとって、こうした天災は恐怖の対象でもあったと同時に、人間の悪しき所業に対する神の懲罰であると考えられていた。しかしながら、現代においてそうした見方だけで自然災害は説明できない。別な視座が必要であろう。
そんなことを考えたのは、先月刊行された『農耕詩の諸変奏』における海老澤豊氏の論文「十八世紀英国の農耕詩における天災」を読んだからだ。氏が言及しているジョン・フィリップスの『林檎酒』(1706)におけるイギリスの古都アリコニウムを襲った伝説の大地震の描写は、聖書や『アエネーイス』などの古典、さらにはミルトンの『失楽園』を下敷きにしつつも、迫力あるものとして読めてしまう。四川や東北の地震の状況を見聞きしているがゆえに、こうした古典的な詩行であってもリアルな響きをもって想像力が刺激されてしまうのである。
この論集は一年前のあるシンポジウムをもとにしていて、僕も寄稿させてもらったのだが、海老澤氏はその時の発表原稿とは異なる論文を論集に寄せてきた。何か理由があってのことだろうと思ったが、注を読んで納得した。当時の勤務校が新潟県柏崎市にあり、2004年の中越地震、2007年の中越沖地震を直に経験しているのだ。論文には犠牲者追悼の意図も含められている。そうした非日常的な体験と痛切な想いがあるからこそ、天災を詠った詩を語ることばの一つ一つにも力があるのだろう。
とくに斬新で興味深いと思ったのは、カリブ海に浮かぶセント・クリストファー島の砂糖黍栽培を詩にしたジェイムズ・グレンジャーの『砂糖黍』(1764)における天災の描写である。医師として現地に渡ったグレンジャーは、総督の娘と結婚し、支配者側に属すことになる。しかし、自然の猛威の前にはそうした支配と被支配の勢力構造がまるで無意味であることを、ハリケーンの描写を通して彼は提示する。
眠りは脅えて逃げ去る。見よ。美しい自然の勝利、
西インド諸島の森の誇りたる、彼方の高い棕櫚が、
硫黄の雷撃で裂かれている。彼方の建物を見よ、
あの館では栄華が繁栄と結びつき、テオドロスが
経験に暮らしていたのだが、今や窒息させるような
炎に包まれている。
(海老澤豊訳)
|
 |
「繁栄」と結びついた白人支配の「栄華」が、ハリケーンの破壊力の前には無力なまま崩壊していく。奴隷制度という悪しき人為的な社会慣習のもとで経済的繁栄を誇っていた大英帝国の欺瞞を、雷撃を伴ったハリケーンが吹き飛ばしてしまうのだ。勝利する「自然」の前には、帝国主義の残骸が積み上げられている。
海老澤氏は農耕詩において天災の描写は「脱線」であるという前提にたって議論を進めるが、果たして天災を詠うことは農耕詩の周縁的な飾りでしかないのであろうか?量的な意味ではそうかもしれない。しかし、農耕詩が厳しい自然環境の中で孜々として人間が営む労働を詠うものである限りにおいて、自然災害を描くことは農耕詩の本質に関わるものとは言えないであろうか。「人為」が一人歩きをし、人間社会が栄華と豊かさを極めたと思った瞬間に、自然の猛威は、その傲慢をなぎ倒す。牧歌的な楽園の安逸は、地震一つで、あるいはハリケーン一つで、「労苦」の農耕詩の世界に変貌してしまうのである。
そこにはエコロジーとサステナビリティの精神も包摂されていよう。帝国の繁栄の名のもとに、自然を克服し、奴隷を酷使し、植民地を搾取する行為が、自然の力によって否定されてしまう。自然の威力を前にして、いかに人間が自然の生態系の中で自らの位置を再確認し、生き続けるのか。そして、先進国と開発途上国の区別なしに、共存共栄を図ることができるのか?そうした問いかけが内包されているのである。その限りにおいて、農耕詩は叙事詩的なモチーフを環境批評的な領域に置換した「エコ」詩でもある。
とすれば、自然災害を神の懲罰という形而上的な問題で済ますことはもはやできないであろう。そこには人間が技術によって自然の領域を侵し続けた結果起こった生態系、そして自然環境の崩壊が潜んでいる。今年日本でも公開されたナショナル・ジオグラフィー制作の映画The Earthを見れば、いかに温暖化が世界中の動物たちの生態を破壊しているかが痛ましいほどわかる。しょせん人間も動物であり、自然の一部でしかない。破壊された自然の苦しみは、人間社会にも降りかかってくる。自然が涙を流し、血を流すとき、人間もまた血と涙にまみれることになる。猛威を示すはずの自然がいまや瀕死状態で横たわり、その結果として生態系すべてが自滅していく末路が示されている。
G8洞爺湖サミットにおいても環境問題が議論された今、自然災害についても単なる悲劇で済ませるのではなく、自然環境全体における人間の位置づけにも想いを寄せながら、農耕詩を再読してみるのもいいのではないだろうか。
|
 |