昨年の地下鉄テロ以来気にかけていたロンドンの地下鉄であるが、そのロンドンに久しぶりに戻ってきて乗ってみるとさほど以前と変わりはない。テロ直後はイスラム系の人々に対する乗客の態度が変化したという話も耳にしたが、現在ではいつも通りである。 しかし、このロンドンの地下鉄というのは歴史が古い。ベーカールー線(Bakerloo Line)は3月10日で100周年である。もちろん車体は定期的に変えているのだろうが、それでもなんだか古く見えるし、とにかく汚い。
日本に来たイギリス人が東京や京都や大阪の地下鉄の清潔さに感動するのも肯ける。多分、掃除など一度もしたことがなさそうな電車内はとても座る気にもならない。ある研究チームが電車内のシートを裏返して、汚れの成分を検査したことがあった。そこにはサンドウィッチやポテトチップスの食べかす、ジュースの沁み、髪の毛、汗、そしてあろうことか男性の精液まであったのだ。いったい地下鉄の中で何をしているのだろう?東京の清潔できれいな地下鉄に慣れてしまった今、ロンドンの地下鉄シートに座るのはかなり勇気がいる。
しかし、仕事のため移動しないわけにはいかないので駅に向かう。自動券売機の前にたっていつも通り小銭を取り出して入れようとした。市内までの往復券は£4.60だ。どこであれイギリスではお札を受け入れてくれる自動販売機なんかはめったにない。だから、重いのを我慢してじゃらじゃらと常に小銭を携帯している必要がある。僕はだいたい5ポンド程度は硬貨でもっていることにしている。1ポンド硬貨を5つ取り出して、券売機に入れようとしたその瞬間、£5.40の表示が目に飛び込んだ。ええっ、なぜだ!一瞬動揺したが、すぐにロンドンの地下鉄が最近値上げしたことを思い出した。だが、財布をひっくり返したところで中には£5.26しかない。ずっと以前、初めてロンドンの地下鉄に乗った頃には確か初乗り60p、往復で90pぐらいだったはずだが、いつの間にか往復£1の壁を軽く超え、£2の壁も超え、やがて£4.60になっていた。それが現在£5.40だ。一日乗車券も£5.40だ。この価格上昇の速さはインフレよりはるかに早い。といって愚痴を垂れたところで、値段は変わらない。仕方なくカードで購入した。最近はこっちの方が便利で早いのかもしれない。
地下鉄運賃の値上げは必ずしもサービスの向上と結びついているわけではない。労働コストの上昇、そしてテロ対策強化のしわ寄せが運賃にまで来ているのだと思う。ともかく行き先や終点がよく変るのには一番困る。大英図書館に行くときは、たいがいノーザーン線(Northern Line)のゴールダーズ・グリーン駅(Golders Green)から乗って、ユーストン(Euston)駅かキングズ・クロス(Kings Cross)駅で降りる。ノーザーン線上りはユーストン駅から二手に分岐するので、どっちでも構わないはずだが、どっちの電車に乗っているのか判断するのが結構難しい。ゴールダーズ・グリーン駅には次発電車の電光案内板があって、Morden (via Bank)とかMorden (via X)という表示が出る。前者はシティー経由の電車で、Xはチャリング・クロス(Charing Cross)経由ということだ。しかし、これはいわば理論的なものであって、この電光掲示板と現実との間にはギャップがある。つまり、まったく当てにならないのだ。バンク経由と思ってユーストンの次キングズ・クロスで下車しようと思っていると、いつの間にかチャリング・クロス経由の電車に乗っていてウォーレン・ストリート(Warren Street)の駅に停車している。この逆のケースもある。ひどい話だが、実際にやられると本当に腹が立つ。
帰りにも問題はある。実はノーザーン線は下りも二手に分かれているのだ。カムデン・タウン(Camden Town)という薄汚れた原宿のような場所があって、そこから先がまったく違う方向に行く。キングズ・クロス駅やユーストン駅の電光案内板はかなり正確なので助かるが、困るのは終着駅がよく変ることだ。エッジウェア(Edgeware)が普通終点なのだが、夜になると途中で勝手にゴールダーズ・グリーン駅止まりになってしまう。アナウンスが突然入って、この電車はゴールダーズ・グリーン駅までしか行きません、と一方的に宣言するのだ。僕はそこで降りるのだから文句言う筋合いはないが、そこから先に行きたい人は腹が立つと思う。しかし、不思議なのは行き先や終点が変っても、イギリス人は顔色一つ変えないことだ。
一度ゴールダーズ・グリーンの駅でたまたま知り合いに会ったので、乗客の冷静さを皮肉に讃えたら、内心びっくりすることもあるがテロが起るわけではないし別に大した問題じゃないだろう、と言う。妙に納得してしまいそうになるが、確かに予期に反したことが起っても冷静に対処する姿勢はイギリス人に共通する美徳なのかもしれない。 実際、生活の中であれ、人生であれ考えていた通りに全てが行くわけではない。気づかないうちに方向違いの路線に乗っていたり、途中下車せざるをえなかったり、路線変更せざるをえないこともある。パニックせず冷静さを失わずにいることはストレスをためないし、次の行動を考える余裕も生まれる。迷走という名の電車から学ぶことも結構多い。