○○の日記

                  
                         イギリス映画 批評コーナー
[ ここでいうイギリス映画の定義は、資本、ロケ、監督、俳優、原作などの制作に関わる要素いずれかがイギリスに関連しているのが基本だが、イギリスで上映され評価された作品も含むこととする。]

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ブーリン家の姉妹                    

                  25 August 2008

『烈しく愛して』The Edge of Love (2008)

監督: John Maybury
脚本: Sharman Macdonald
出演: Keira Knightley, Sienna Miller, Cillian Murphy, Matthew Rhys



 初めてディラン・トマスの朗読を耳にしたのは確か二十歳頃だったと思う。その時に感じた戦慄にも似た衝撃だけははっきりと体に残っている。重低音のように太く、深く、それでいて伸びのある声が、かすかなウェールズ風の抑揚を織り交ぜながら、朗々たる反響を伴って‘Do not go gentle into that good night’を詠い上げていた。一つ一つの言葉が情熱と魂を吹き込まれ、「言霊」として闇の中に舞い上がり、やがて聴いている人間の体内に流れ込んできて酒のように陶酔させるのである。
 W. H.オーデン、テッド・ヒューズ、シェイマス・ヒーニー、どの詩人もそれぞれ個性豊かで味のある朗読をする。しかし、ディラン・トマスのように薬物にも似た効果をもって聴く者を酔わせ、恍惚とさせる詩人をわたしは知らない。訪問先のアメリカでの急逝から50年以上も経つにもかかわらず、彼がカリズマ的な存在として現在にいたるまでファンを魅了するのは、過度なまでに抒情的な詩と音楽的な朗読があるからこそである。
 その根底には、彼がウェールズ出身であるという背景があると言われている。文字を持たず、口承によって文学・伝説を受け継いだ芸術性豊かなケルト民族の文化的アイデンティティを、トマスの詩句、そして朗読に見出してしまうのは偏見ではなく、きわめて正当な理解であろう。実際、彼の作品の多くは生まれ故郷であるスウォンジーの生家で書かれたものだ。
 しかしながら、そのケルト的な芸術的感性と彼の自己破壊的なまでの耽美的人生の不純な融合にこそ、彼の詩的アイデンティティを見出してもいいかもしれない。『烈しく愛して』はそんなディラン・トマスの混濁した私(=詩)生活を題材に扱った映画である。2008年のエディンバラ・フェスティヴァルのオープニングを飾った作品である。
 ディラン・トマス(マシュー・リース)と妻のカイトリン(シエナ・ミラー)、そして彼への想いをなかなか断ち切れずにいる幼馴染みのヴィーラ・フィリップス(キーラ・ナイトリー)との三角関係が話の中心である。トマスとカイトリンの自堕落的な性生活、トマスをめぐる二人の女性の確執と、それを機に展開する不安定な友情関係を通して、ディラン・トマスの内面性を浮かび上がらせようとしている。
 第二次世界大戦中、ドイツ軍による空爆の避難所となっていたロンドンの地下鉄でエンターテイメント歌手として舞台に立っていたヴィーラは、偶然かつての恋人であるディランと再会する。しかし、彼には妻と子供がいた。
 ディランに想いを残しながらも、それを振り切るように将校と結婚したヴィーラだったが、夫ウィリアムはすぐに前線に送られてしまう。子供を生み、ディランとカイトリンとともに故郷ウェールズに疎開し、けなげに夫を待ち続けるヴィーラであったが、衝動的にディランと関係を持ってしまう。夫とカイトリンに対する罪悪感に苦しむヴィーラ。
 そんな時にウィリアムはシェル・ショック症候群を抱えて帰還する。ヴィーラはウィリアムが別人のように無気力で、時に過敏な反応をすることに驚愕し、理解できずに困惑する。そんなウィリアムは、ある日、自分の従軍中にディランが妻を誘惑し、自分の給料も使い込んだことを知り激昂する。戦争の現実を知らずに戦争プロパガンダを作り続けるディランの家に発作的にマシンガンを手にして殴りこんでいく。引き裂かれていく二つの家庭。
 ウィリアムは殺人未遂罪で裁判にかけられるが、ヴィーラは彼への愛情をむしろ確信し、ディランに対して夫を擁護する証言をして欲しいと哀願する。しかし、ディランは殺意があったと証言してしまう。どうしようもない嫉妬と打ち砕かれたプライド、そして自己嫌悪を露わにするディラン。15歳の時の恋人は引き裂かれたまま物語は幕を下ろしてしまう。
 ヴィーラの演技自体は脚色されているが、映画の筋書きと登場人物はすべて実話である。ディラン・トマスの私生活と混濁したアイデンティティをリアリズム風に描出した映画になっていると言える。しかし、幼馴染みとの確執にこだわったことによって、やや焦点がボヤけてしまっている印象はぬぐえない。脚本はキーラ・ナイトリーの母親で、舞台作品も手がけているシャーマン・マクドナルドであるが、この映画に関しては俗的な部分を強調しすぎかもしれない。いつの間にか、詩人の無責任さ、非現実的な芸術家の無能さを批判するセンチメンタルな道徳劇にすり替わってしまっているようにさえ見える。トマスの性的リビドーとセンチメンタリズム、エゴイスティックな独占欲はうまく描けていても、彼の詩の本質と魅力を理解するには不十分である。トマスの詩や朗読が、戦時中の三角関係のバックグランド・ミュージックにしか聞こえない。
トマスの詩の世界に浸りたいというファンにとっては物足りないのである。ウィスキーのロックを一杯だけ飲んだところで、バーから追い出されたような失望感である。
 その一方で、カイトリン役のシエナ・ミラーとヴィーラ役のキーラ・ナイトリーが、二人の女性の確執をみごとに演じきっている。ウィリアム役のキリアン・マーフィーとディラン・トマス役のマシュー・リースもいい。彼らの演技力で持っている映画である。実はもう一本別のディラン・トマスの映画制作も進められている。こちらはジェームズ・ボンドを務めたピアース・ブロズナンによるものだ。そちらも楽しみにしたい。

© 2005-8 Kaz Oishi